政治学って何? 〜投票するのは損か、得か?〜
こんにちは、慶應義塾大学大学院で政治思想史を学んでいる楮原航平といいます。今回は政治学について少し書いてみたいと思います。とはいえ、政治学には多種多様な論点があります。この記事では「自己利益」という切り口から、政治学の一面を紹介してみましょう。
いきなりですが、イメージしてみて下さい。
今日は選挙の日、あなたは投票所にいます。目の前には投票用紙。自民党、民主党、共産党、公明党、維新の党などなど、たくさんの政党の候補者。皆さんは、どの候補者、どの政党に投票しますか?
……実際のところ「わからない」と答える人が多いのではないでしょうか。僕は大学で政治学を専攻していますが、どこに投票するべきか判断するのは簡単ではありません。選挙で扱われるテーマは複雑だからです。外交、教育、福祉、経済など、何が正解か分からないような問題がたくさんあるのです。
では、難しい政治について考えるのは、専門家や頭がいい人に任せてしまうべきでしょうか? でも、これはちょっと微妙な問題なのです。
投票に行くのは損!? 「合理的無知」とは何か
ここで意外なお話をしましょう。「頭がいい人の方が、投票に行かない」という説が存在するのです。これは一体どういうことでしょう?
選挙は一人一票ずつ、平等に影響力を持ちます。
でも、これって逆から考えると、自分の票が与える影響力は有権者全体の数十万分の一、数百万分の一に過ぎないということでもあります。つまり、自分が投票しようがしまいが、結果はほとんど(全く)変わらないのです。
それならば、投票やその前後の移動にかかる時間をアルバイトや勉強や趣味に使う方が、自分にとってのメリットは大きいですよね。政治について勉強するのもコスト・パフォーマンスが悪いです。当てずっぽうで投票しても、しっかり分析して投票しても、どちらも同じ「一票」なのですから。
つまり、合理的に損得勘定をすれば、政治に関わるのは「損」なのです。これに基づけば、自分の利益を最大化するために、人々は政治について学ぶのをやめてしまうのです。このことを「合理的無知」仮説と言います。
「自己中心的な行動」は、本当に自分の利益になるか?
しかし、誰も投票しなくなったら世の中はどうなるのでしょうか。例えば、「めんどくさいから、やりたい人で勝手に決めてよ。決まったことに文句は言わないから」という人ばかりだったら……。なんだか、学級委員長を決める時みたいですね(笑)
選挙をしないで政治権力者を決めるシステムには、たとえば王政や貴族政があります。いちいち選挙をする必要がないから楽ではありますが、王や貴族が自分たち自身の利益のために、国民の言論を制限したり、重税を課したりする恐れもあります。そんな時、選挙制度がなければ、王様たちを武力で倒すしかありません。これがいわゆる「革命」であり、しばしば多くの人の命を奪います。
選挙というのは面倒くさいものですが、長い目で見た時に、国民が自分たち自身の利益を守るために必要な「コスト」なのです。
今は「選挙」の例でしたが、もっと話を広げて考えましょう。「自分の利益だけでなく、他者のことや公のことも考える」必要があるのは、なぜでしょうか?
たとえば、税金。税金を払わなかったら、その時の自分はもうかります。しかし、税収が十分でなくなれば、税金に支えられている公教育や社会保障制度、消防や警察などのサービスが崩壊してしまいます。これも長い目で見たら、かえって自分自身の不利益を招いていますね。
町内会や自治会のようなボランティア的な組織も、似た構造を持っています。今は負担になるけれど、それを避ける人が多くなれば、自分が生活するコミュニティやルールが崩壊してしまう。
自分の利益ばかり優先する人が多くなれば、かえって自分にとっての不利益を招いてしまうという逆説。他者や公への配慮は、実は自分自身の利益に対する配慮でもあるのです。
とはいえ、他者や公のために自分を犠牲にしてしまうのも考えものですね。個人の利益と全体の利益とのバランスをどう取るべきか?これは、政治(学)の中心的なテーマのひとつです。
「正しく理解された自己利益」
自分の利益ばかり追求してはならない、と誰もが薄々感じています。しかし、「そんなのキレイゴトでしょ」と言われたら、なんだかうまく反論できない気もします。相手を説得できない意見は、政治の場においては存在意義がありません。説得は難しい。だからこそ、昔から多くの政治思想家が「自分のことだけ考えたらダメだよ」という説得を、手を替え品を替え行っているのです。
一人だけ例を挙げましょう。19世紀のフランス人思想家トクヴィルは、「正しく理解された自己利益」という形で説得を試みました。まだ新興国であったアメリカを視察したトクヴィルは、その経験をもとに『アメリカのデモクラシー』という本を書きます。
トクヴィルが見たものは、仲間と団結して学校を作ったり、教会を作ったりするアメリカ人の姿でした。彼らはそのような活動を通して、他者のために行動することが結局は自分自身の利益にもなることを学んでいたのです。
なぜでしょう? 身近な例から考えるとわかりやすいかもしれません。たとえば、学校の掃除は面倒くさいものです。やらないで済むなら、サボりたい。しかし、皆が掃除をしなくなると、学校は汚れ、暮らしにくくなります。
「自分のことだけ考えればいい」「他の人を助けなくてもいい」という雰囲気が広まってしまうのも困りものです。今はいいかもしれませんが、いつか自分が困った時に、誰も手を差し伸べてくれないでしょう。
日本には「情けは人の為ならず」ということわざがありますが、トクヴィルが言いたかったのはそういうことかもしれませんね。(いま「あれ?」と思った方は、辞書でこのことわざを調べてみましょう。)ともかく、こうしたことをトクヴィルは「正しく理解された自己利益」と呼び、アメリカ社会の特徴として描き出しているのです。
政治に正解はない!
トクヴィルの見解には批判もあります。クラブ活動や委員会などで他者と関わる機会が多い人は、メンバーのために善意で行動した結果、自分だけが損をした経験があるかもしれません。人のために行動したけれど、誰も気づいてくれないこともあるでしょう。また、そもそも何が本当に「人の役に立つ」かなんて、誰にもわからないものです。
ここまでお読みになった方は、「政治学ってハッキリしなくて、何が言いたいのかよくわからないな」と感じているかもしれませんが、それも無理からぬことです。だって、政治には「正解」がないのですから。正解がなく、みんなそれぞれ考え方が違う中で、「でも、ここは合意できるね」「このルールは守るべきだ」といったギリギリのラインを探る方法を研究すること。それが政治学の存在意義だと僕は考えています。
ひとつの意見や価値観を絶対視せずに、常に別の見方を想像すること。皆さんも、これまで当たり前だと思っていた物事を、別の視点から捉え直してみると、きっと新たな発見があると思います。
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